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Author:芳野 朔
芳野です。自作小説と手芸、日々の雑感をたま〜に綴っていきます。尚、ここに投稿された小説の著作権は全て私、芳野にあり、他の文章はその筆者に著作権があります。無断転載・盗用等を禁止します。

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  『墓守り』

 一番最初に眠ったのはパン屋の娘だった。

 焼きたてのブリオッシュを載せたトレイを持ち、工房から店に向かおうとしているところだった。  
 トレイを持ったまま動かない娘を、最初はふざけているのかとパン屋の主人もおかみさんも思ったらしい。だが、瞬きもせず微動だにしない娘に尋常ならぬものを感じ、主人は娘を部屋に運び、おかみさんは医者を呼びに行った。
 ベッドに寝かされた娘は微かに胸を上下させ、唇からは息が漏れ、ゆっくりと脈は打っていた。
 眠っているだけだった。
 少し眠れば目が覚めるだろうと誰もが思ったのだが、娘は目覚めることもなく、昏々と眠り続けた。
 
 その日の夕方、郵便配達人が眠った。
 翌日には小学校の教師と農家のおかみさんが、翌々日には裁判官とお針子と町長の孫が眠った。
 一週間も経たぬうちに町の五分の一の人々が眠った。牛や馬や空を飛んでいる鳥も眠った。
 
 町長は隣の大きな街に使者を送った。医者でも科学者でも呪(まじな)い師でも、誰でもいいからこの病気の原因と対策を知っている者に来てもらおうとしたのだ。だが、使者は町を出る前に眠ってしまった。他の使者を送っても同じだった。電信係も電話交換手も伝書鳩も眠ってしまい、外との通信の手段は途絶えた。
 町から逃げ出そうとした者もいたが、途中で眠ってしまい、町から出ることはできなかった。

 僕達にできることは事態を受けとめることだけだった。
 人々は眠り、残った者が粛々とベッドに運ぶ。
 町から音が消えていき、そして、僕と墓守りの老人だけが残った。
 
 僕は裏通りにある下宿に住んでいる。
 老人は教会の近くにあるあばら家に住んでいる。
 二人だけになった日、一緒に町に住むことを提案したが、老人に断られた。
 老人の気持ちはよくわかる。僕にしても、町長の屋敷に住んだとしても咎める者はいないのだが、不思議とそういう気にはなれなかったからだ。くたびれた建物であっても、家賃の安い屋根裏部屋であっても、僕はこの部屋が好きだった。
 誰だって、眠る時は自分のベッドが一番良いのに決まっている。
 
 朝日が窓から射してくると、僕は、その眩しさ、額や頬に感じる温かさで、目が覚める。

 牛乳を配達する荷車の音。小鳥の囀り。犬の吼え声。窓を開ける音。おはようの声。
 朝の清々しさを伝える音はもう聞こえない。
 静けさの中で瞼を開け、僕は自分が目覚めたことを知る。

 
 顔を洗って服を着ると、僕は真っ先にパン屋に行く。
 ベッドに横たわる娘におはようの挨拶をし、一言二言声をかける。
 娘の頬は赤みを帯び、静かな寝息が聞こえ、三つ編みにした髪には赤いリボンが結ばれている。
 眠る前の日に、僕が贈ったリボンだった。
 
 それから僕は肉屋に行き氷室から肉やソーセージを取り出すと、自転車で老人の家に向かう。老人の家からはパンの焼けるいい匂いがし、老人が目が覚めていることを僕は知る。
 朝食を摂った後、僕達は仕事にかかる。
 老人の提案で、眠っている人々に墓碑銘を書くことにしたのだ。
 正確に言えば墓碑銘ではない。人々は死んではいないのだから。
 でも、何か仕事をしなければ、僕達はおかしくなってしまいそうだった。
 僕は裁判所で書記見習いをしていた。字を書くことができる。そして、老人は町の人々をよく知っていた。
 昨日は鍛冶屋の家に行き、鍛冶屋やおかみさん、子供達の話を教えてもらった。
 老人と相談しながら墓碑銘を考える。
 鍛冶屋には、汝の打った蹄鉄は、どの馬も早駆けとなり、天までも駆けていく、と。鍛冶屋のおかみさんには、汝、夫を助け、子供を育てし者、汝の作るミンスパイは比類なく絶品である、と紙に書いた。
 紙をくるくると丸め、リボンを結ぶと、胸の前で組んでいる手の下に差し込んだ。
 こうしておけば、誰かが訪ねて来た時に、この町に眠っている人々のことがわかるだろう。
 
 誰か……。
 童話であれば、王子様が尋ねて来て、この町にかけられた魔法を解いてくれるのだろう。お姫様にキスをして。
 
 僕は一度だけパン屋の娘に口づけたことがある。
 最初に眠ったのはパン屋の娘だったから、もしかしたら、童話のように娘も町の人々も目が覚めるのではないか、と思ったのだ。
 でも、娘は目覚めなかった。
 僕に応えてくれない娘の唇は温かかったけれど。

 
 娘が眠ってから三ヶ月が過ぎた。
 墓碑銘は書き終わった。
 肉屋の氷室には肉がなくなり、ハムとソーセージが僅かにあるだけで、粉屋の小麦粉も残り少なくなっていた。畑の野菜は収穫したが、鶏や牛も眠ってしまった。

 朝、目覚めると、いつもの眩しさとは違っていた。
 窓の外を見ると雪が舞っていた。初雪だ。顔を洗い終わる頃には雪は止み、僕は自転車に乗ってパン屋に寄ってから老人の家に向かった。帽子を被ってはいたが、耳は剥きだしだったから、風に当たって痛いくらいだった。
 老人の家からはパンの焼ける匂い、煙突からは暖炉の煙がたなびいていた。
 ドアを開けた。おはよう、の言葉は途中で止まった。
 老人は安楽椅子に腰掛け、眠っていた。
 右手に持ったパイプからは煙が出ていなかった。満足そうに微笑みを浮かべているから、きっと、煙草は吸ったのだろう。
 しばらくの間、ぼうっとしていたが、ようやく自分の仕事にとりかかった。
 老人を抱え上げベッドへ運ぶ。思ったより軽くて、僕が最後に残って良かった、と思った。
 胸の上で手を組ませ、パイプと墓碑銘を書いた紙を差し込んだ。枕元には煙草と灰皿を置いた。目が覚めたらすぐにでも煙草が吸えるように。

 僕は竈と暖炉の火の始末を終えると老人の家を出た。
 自転車を押しながら町に向かう。
 
 
   ―了―

「粛々、清々、昏々」「台詞のない話」


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