K湖に行きたい、と妻が言った。
何を呑気なことを言っているんだ、私は思わず声を荒げてしまった。傍にいた遼に、お父さん、ここ、病室だよ、と小声でたしなめられた。妻は笑顔を見せ、大丈夫よ、一泊くらい、遼が小学生の頃は毎年、キャンプに行っていたじゃない、と言った。
キャンプをしたいって言ってるんじゃないのよ、湖のほとりでバーベキューをして、ボートに乗って釣りをして、それだけでいいの。花火もしたいけれど昼間じゃ面白くないから、それはいいから。K湖の近くに素敵なコテージがあってね、昨日、オーナーに電話をかけたら、空いているって言っていた。そこだったら家にいるのと同じで、躯にそんなに負担がかからないし。手術が終わってもすぐには退院できないから、今の方が自由に動けると思うのよ。来年は、ほら、遼も高校生だし、高校生になったら、親なんかと出かけてくれなくなるでしょ。
クリーム色のカーテンがゆるやかに波打ち、六月の風が入ってきた。ライラックの香りが満ち、一瞬、消毒薬や薬の匂いを消す。私は妻の言葉を黙って聞いていた。
どうせ、ほとりにいるのなら、
カーテンがはためき、乱暴な音をたてる。遼は立ち上がって窓を閉め、病室に元の匂いが戻った。
結局、医師に反対され、自宅に一泊することを許されただけだった。
妻の手術は無事終わり、夏の盛りに退院したが、半年もたたないうちに再入院した。遼の高校受験とも重なり、どうやって日々を過ごしたのか、記憶には残っていない。残っているのは、あの時の言葉だけだ。
風に遮られた言葉を私は繰り返す。
―了―
「ことり」「さとり」と来たので、「ほとり」でオワリ。
短いなあ。
前に書いたものの一エピソードです。