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Author:芳野 朔
芳野です。自作小説と手芸、日々の雑感をたま〜に綴っていきます。尚、ここに投稿された小説の著作権は全て私、芳野にあり、他の文章はその筆者に著作権があります。無断転載・盗用等を禁止します。

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『LOVE』

 裁判官を務めていた夫が定年退職をしたのは昨年のことだった。働いていた時は「ゆっくり休みたい」「旅行に行きたい」「思う存分読書がしたい」などと言っていたのだが、いざ、四六時中家に居るようになるとすぐに退屈してしまった。これといって趣味のなかった夫は、図書館に通って郷土出身の俳人の足跡を辿ったり、カルチャーセンターで陶芸や短歌を学んだりしたのだが、どれも長続きしなかった。それが、昨夏、突然「ピアノを習いたい」と宣言し、近所のピアノ教室に通い始めたのだ。
「あーあ、また始まった。どうせ一ヶ月坊主なのに」と娘は呆れて言った。その一言が気に障ったのか、一ヶ月どころか、半年以上も続いている。習い始めの頃、夫は譜面にドレミと片仮名で書いて、片手で練習した。ポツン、ポツンと鳴っていた音は、やがてたどたどしいながらも両手の音が響くようになり、午前午後と二時間ずつ練習した成果が出るようになった。娘が帰宅するのを待ちかまえて質問をしたり、娘にお手本で弾かせたりもした。中学生の頃までピアノを習っていた娘はブランクが長く、それほど上手には弾けないのだが、夫が弾いているのをみると、自分も弾きたくなるのか、昔の楽譜を広げて弾いたりもした。十年以上も鳴ることのなかったピアノは、居間の飾り物でしかなかったのに、父娘二人によって息を吹き返したようだ。
 夫も娘と共通の話題ができたのが嬉しいのか、クラシックのコンサートに家族三人で出かけたり、知人に宛てた年賀状には「六法全書をオタマジャクシの楽譜に持ち替えて、日々励んでおります。今では娘と連弾ができるようになりました」などと書いて、娘にまたもや呆れられていた。
 その娘もこの春には嫁いでしまう。
 勤めている会社は三月末で退職するのだが、年度末も重なり、連日残業で忙しい。昨夜は趣味のテニスサークルでお別れ会をしてくれたとかで、帰宅したのは遅かった。
 夫は午前九時になるとピアノの練習を始める。平日も日曜も関係ない。ハノンの音階練習を終え、今はブルグミュラーの『貴婦人の乗馬』を弾いている。二階の部屋からスリッパの足音も高く娘が下りてきた。髪をくしゃくしゃにさせパジャマ姿のまま台所にやってくると、居間との仕切りのドアをバタンと閉めた。開口一番、早口でまくしたてる。
「ママ、パパのピアノを止めさてよ。せめて練習は午後からにして、って言って。もう最悪。寝てられないのよ。騒音だよ、あれは。ご近所だって迷惑しているよ」
 娘は冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出すと、ごくごくと飲んだ。
「ほら、コップに入れて飲んで。そんな格好でいたら俊彦さんに嫌われるわよ。夕べは遅かったわね。パパ、心配してずっと起きていたみたいよ。それにピアノはパパの楽しみだからねえ」
「知ってる。説教されたし。まったく小さな子供じゃないから心配しなくてもいいのに、う、頭が痛い」
 娘はダイニングテーブルの上に突っ伏した。
「お願いだから力任せにフォルテシモで弾かないで、って言ってきてよ、ママ。ただでさえか二日酔いで頭がガンガンしていると言うのに、これじゃあ頭がサンドバッグ状態だよ」
 私は娘に見えないようにして微笑んだ。確かにあれは貴婦人ではなく巨人の乗馬だ。話題を変えよう。
「今日は俊彦さんが来るのでしょう?」
「うん。式場で待ち合わせて最後の打ち合わせ。それから足りない家具を見て回って、晩御飯はこっちで食べていい?」
「勿論いいわよ。俊彦さんの好きなものを作るわね」
「サンキュー、ママ。じゃ、シャワーを浴びて、出かける用意をするね」
 そう言って、娘はあくびをしながら浴室に向かった。

 娘が出かけると、夫はナット・キング・コールの曲を練習し始めた。
 ウエディングドレス姿で娘が披露宴会場に入る際に弾くのだ、と張り切っている。ピアノの先生に初心者用に楽譜を書き直してもらい、猛特訓をしている。夫も娘も泣かなければいいけれど、と私は少し心配だ。さあ、買い物に出かけて、晩御飯の用意をしなくちゃ。

  −了−

「ピアノ、サンドバッグ、六法全書」





前作より短いとは言え、やはり長い。。。。

ま、いっか。

しまった。ミスった。
×勤めていた会社は三月末で退職するのだが、〜
○勤めている会社は〜

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