「どうしても行くのか」
夫が窓枠に腰掛けていた。私は無言のまま鏡台の椅子に座り化粧を続けた。ブルーのアイシャドウを綿棒でぼかす。
一時間前、子供達は友人に預けた。ずっと一人で頑張ってきたのだもの、そろそろ、あなたも自分の人生を楽しまなきゃ、友人はそう言って末娘を抱き上げた。デートだと信じきっている友人に私は曖昧な微笑みを返した。
デートと言えるのかもしれない。勤め先のボスから食事とダンスに誘われたのだから。ボスの目的がそれだけではないことはわかっている。今日中に帰ってこれないことも。でも、二人の子供を抱えている私に、どんな選択肢があるというのだろうか。破格のサラリーを失いたくなかった。
ルージュの蓋を外す。リップブラシに艶やかな赤を掬う。
At the barracks compound,
By the entry way
夫が口ずさむ。鏡に映る私はルージュを上手く塗れない。震えるブラシは唇の形を外す。
「邪魔、しないで……」
夫は私の声が聴こえていないのか、そのまま低い声で歌う。ノイズの入ったレコードのように、途切れ途切れの歌声は私を苛む。
Then we'll see each other again
Near that old lantern we'll remain
バスルームに行って精神安定剤のタブレットを飲むか、サイドボードから夫が好きだったブランデーを取り出して一気に呷るか。何かを飲んで自分を麻痺させなければ、化粧も何もかも、先へ進めることはできない。肘をつき、指先を眉間に当てた。瞼を閉じる。お願い、最後まで歌わないで。
「邪魔をしているわけじゃないよ。無理をして欲しくないだけだ」
夫の口癖だった。
――君には無理をして欲しくない。
いつもそう言って、でも、無理をしないで生きていくことなんて、どうして出来るのだろう。
その腕で私を抱くことも、その指先で私の髪を梳くことも、何もできないくせに。
私は両手で顔をおおった。抽斗にある封書こそが幻であればいい。合衆国のために、英雄として、そんな言葉より、私が欲しいものはただ一つなのに。
―了―
「タブレット、封書、綿棒」「男女の会話で静かな雰囲気を出す」
わかりやすくなったでしょうか。
前回、空白行と改行の指摘があったので、それも気をつけてみました。ちょっと苦しかった(笑)。
綿棒はかなり早い時期からあったのですね。アメリカでは戦前からあったようです。
この作品は、アメリカで、戦後、ということですねー。
『リリー・マルレーン』も調べてみると、なかなか面白かった。
いろいろな歌詞があるようです。