母の卵巣には髪の毛が一筋、入っていた。
胎児の形にすらなれなかった母の、姉。
初めてその話を聞いたのは私が十九になった次の日だった。
十九の誕生日、私は恋人と出かけた。街のレストランでワインを飲んで食事をして、海までオートバイを走らせた。お尻にオートバイの振動を感じ、スカートの裾が翻る。私は恋人を背中から強く抱きしめていた、ずっと。
振り落とされないように。
理由があったから、胸が潰れるくらい躰を寄せていても恥ずかしくはなかった。恋人は傷病兵の知り合いから譲ってもらった革のジャンバーを着ていた。使い込んだ革は所々ひび割れてオイル臭かった。
よぎる風に潮風が混じり、私達は海に着いた。人気(ひとけ)のない海は寒く、ワインの酔いはあっという間に醒めた。木綿のワンピースにカーディガンだけの私はかたかたと震えた。恋人は革のジャンバーを脱いで私に着せてくれた。大きな手がチャックを引き上げる。襟元までくると、指先は私の喉をなぞり顎を軽く持ち上げた。何かを言おうと口を開きかけた時、恋人は顔を屈めてキスをした。
私達は手を繋いで砂浜を散歩してキスをして、岩陰で煙草を吸った。最初は咳きこんでいたけれど、月が真上に昇る頃には上手く吸えるようになった。ワインの香りも料理のスパイスも消えてしまい、舌には紙が貼りついていた。顔をしかめて口の中で舌を動かしていると、舌を出して、取ってあげるよ、と恋人は笑いながら言った。子供のように少しだけ舌を突き出すと、恋人も同じように舌を突き出してきて、私の舌の先に触れた。それから舌を絡めてきて、私達は抱き合って長いキスをした。
時間が過ぎて、私達はオートバイに乗った。
家に向かうのは、行きのように楽しくはなく、私はずっと黙っていた。潮の匂いは消えていった。
善良な人々が暮している住宅街では、オートバイの排気音は爆撃の音のように聞こえる。家のずっと手前で私はオートバイを降り、歩いた。恋人が見ていてくれるのがわかっていたから背中がくすぐったくて、でも嬉しくて。恋人が見ていることを振り返って確かめたいけれど、そうするのは愛情を疑うような気もして、だから私は背筋を伸ばして少しでも綺麗に見えるように歩いた。家に着いて、ポーチの階段を上ったところで振り向いた。恋人はオートバイに跨ったまま、こちらを見ていた。街灯は暗くて顔は見えなかったけれど、表情は見えるような気がした。
安心したように微笑んで、少し眠たげで。頭の中では何時間眠れるか考えているにちがいない、きっと。
駆け寄って抱きしめたかったけれど、そうしたら、恋人はいつまでもベッドには辿り着けない。工場の朝は早いし、寝不足で仕事をすれば指を切り落とすような事故がないとも限らない。
私はドアを開けて大きく手を振った。恋人はオートバイを軽くふかしてから去っていった。
家の中はひっそりとしていた。無理もない、善良な父母は熟睡している時間なのだから。私は靴とソックスを脱ぐと、裸足でキッチンに向かった。喉がとても渇いていて、レモネードか冷たい水が飲みたかった。
テーブルの上には紙包みと帽子の函が伏せて置かれていた。両手で函を持ち上げると、丸いバースディケーキがあって、チョコレートで私の名前とハッピーバースディの筆記体の文字が書かれていた。お城の尖塔のような生クリームの飾りは、蝋燭のように溶けて崩れかかっていた。私は人差し指で生クリームを掬って舐めた。砂粒のようにざらっとした感触があって、舌を出して指につまんでみると銀のアラザンだった。
紙包みは見なくてもわかっていた。母が縫ったワンピースだ。水色のギンガムチェックの生地で胸の上にはスモッキング刺繍がされているのだ。生地を縦長に何本も平行してつまみ、山と山とを刺繍糸でクロスしたり横に渡したりして縫い繋げていく。とても手のかかる仕事だけれど、棒のついた飴の好きな子供向けのものだ。
どうしてわからないのだろう。
私は、お手製のケーキよりも洋酒のきいたタルトが好きだということを。
スモッキングで胸をふんわりと見せる洋服よりも、ハリウッド映画の女優が着ているような、ウエストからダーツの伸びているグラマラスな洋服の方が好きだということを。
私は十九で、十や十一の子供じゃないのに。
冷蔵庫からガラスのピッチャーを取り出し、グラスにレモネードを注いで飲んだ。舌に残っていた恋人と生クリームの甘さが溶けて流れていった。
翌朝、ベッドの中で眠っていると、母が起こしにやって来た。おはようの挨拶と額にキスをして、母はそのままベッドの端に腰掛けた。私は眠そうな振りをしたけれど、母は立ち上がろうとしなかった。俯いて自分のおなかに両手を置くと、突然、自分が十九の時の話を始めたのだ。
おなかが急に痛くなって出血したこと。祖父は馬の買い付けに行っていて家にはいなかったから、祖母が車を運転して近くの病院へ連れていったこと。田舎の病院で設備もろくになく、医師は若く経験が浅そうで、子宮外妊娠のようですね、という言葉に祖母が激昂したこと。両脚を広げて診察台に横たわるのがとても恥ずかしかったけれど、おなかの痛みはそれよりも強く、早く手術が終わって欲しいと思ったこと。部分麻酔だったから、医師の声や器具のカチャカチャという音が聞こえていたこと。取り出した卵巣は腫れていて、その中に髪の毛が入っていたこと。髪の毛は双子の片割れのもので、手術後、標本にしていいかと医者に訊かれ、母や祖母は同意したこと。
――母さんはおまえの父さんと出会って結婚してから、おまえを産んだのよ。お願いだから自分の躰を大事にして。父さんと一緒にバージンロードを歩いてほしいのよ。もう子供じゃないのだから、母さんの言っていることがわかるでしょう?
母はそう言うと、やっと部屋を出て行った。
私は腹立たしかった。
母は私に純潔を求めているのだ。できることなら、スモッキング刺繍のように、私の襞をつまんで縫いたいと思っているのかもしれない。
私は子供じゃない。
翌週、恋人の夜勤明けの日、私達は愛を交わした。終わった後に、まだ中に何かが入っているみたいで痛いわ、と言うと、恋人は笑ってキスをしてくれた。
目尻にできる笑い皺と、煙草の匂いがする唇と、ごつごつとした大きな手と。
私は幸福だった。
そして恋人が徴兵、された。
最初の手紙には毎日塹壕を掘っていること、雨が降っていること、私に会いたい、と書かれていた。
二通目には、私の作るピーカンナッツのクッキーが食べたい、またオートバイに乗って海に行こう、愛している、と書かれていた。
三通目の手紙は恋人と同じ部隊にいた人が届けてくれた。その人は下腹部に被弾して、国に送還されたのだ。怪我が治ってから訪ねて来たので、半年過ぎていたけれど。
手紙には、これから前線に移動すること、必ず帰るから、帰ったら結婚しよう、と書かれていた。
「何をしてる?」
背中から声をかけられ、両手が私のおなかに置かれた。顎が私の頭の上に載せられる。
「ドレッシングの分量を度忘れしちゃって、思い出そうとしていたの」
私は小さく答えた。
「そう? 玉葱のみじん切りは入れないでくれよ」
夫は指の腹で私のおなかを軽く押すと、私から離れていった。ホルン奏者の夫は私を楽器のように扱う。
夕暮れの淡い空気の中、フレンチホルンの金色が輝く。夫はマウスピースを口にくわえ、指の腹でレバーを押す。蝸牛のような渦巻きから穏やかな音が響き、部屋に満ちていく。
私は最後の手紙を届けてくれた人と結婚した。
若くはなかったから、人魚の尾のように膝から裾にかけて広がっている細身のウエディングドレスを着て、父の腕に手をかけ教会のバージンロードを歩いた。
その時からずっと私は歩き続けている、母の望みどおりに。
私は時々考える。
母の姉は髪の毛だけを残して、胎盤と一緒に流れていったのだろうか。
それとも母の躰の中に腕や脚や子宮を溶かしていったのだろうか。
私は時々考える。
取り出された髪の毛はどこにあるのだろう。
大学か病院の地下室の棚にホルマリンの入ったガラス瓶に入れられ、置かれているのだろう。
標本が次々に運ばれてきて、ガラス瓶は隅に押しやられていたとしても、埃を被って中が見えないくらい曇っていたとしても、ホルマリンの中、髪の毛はゆらゆら漂っているに違いない。
私は時々考える。
散った恋人の躰はどこにあるのだろう。
私は時々考える。
母の姉が母の卵巣にいたように、私の恋人は私の卵巣にいる。
私の卵巣が痛み取り出す時がきたのなら、私は標本を作ることに同意しよう。
ホルマリンの海をゆらゆらと泳ぐ恋人を私は、抱きしめる。
――了――
えーと、これが今の私の力です。
わからなくて、誤魔化しながら書いた箇所もありますが。。。。
一人称で書いてしまいましたが、書く感触が戻ってきたような気がしています。
作品としてはどうでしょう?
あまり良い出来ではないかもしれませんが、いい感じで書けました。
追記:
ラストの文章がどうにも決まらなくて、若干修正。
もう少し文章を増やせば、わかりやすいかな、と思いつつも、ヤメ〜。