乳房の上にひやりとした円の感触が置かれた。顔を伏せて聴診器からの音を聞いている藤一郎の姿を千代は見つめていた。上半身だけとはいえ裸身をさらしているのに、藤一郎は淡々と、むしろ事務的な様子で聴診器の先端の位置を変えていく。
診察室の隅には達磨ストーブが置かれ、薬缶の湯がしゅんしゅんと音をたてて沸いていた。窓硝子は白く曇り、待合室との間には白いカーテンが引かれている。隔絶された世界の真っ只中に藤一郎と二人だけでいる。そんな思いが千代を大胆にさせた。
聴診器が邪魔なのだ。
藤一郎が指で乳房に触れてくれたのなら。聴診器も白衣もかなぐり捨てて、自分を抱いてくれたのなら、唇を合わせてくれたのなら。
「背中を向いて」
藤一郎の静かな声が千代の思考を絶った。命令のような言葉に千代は従った。腰を軽く浮かせ、身体の向きを変えた。藤一郎の左手が左の肩に置かれる。左肩が燃えるように熱く感じられた。背中に聴診器が当てられているが、千代の意識はそちらにはなかった。
「胸の音が前よりも大きくなってますね。薬はちゃんと飲んでますか」
「はい」
毎度繰り返される言葉であった。
「はい。もう着物を着ていいですよ。少し強めの薬を出しておきます。一日に三回以上は嗽をするように」
藤一郎の左手は既に離れていた。診察が終わり、自分一人だけが取り残された気分だった。惨めな思いを抱いたまま、千代は立ち上がった。診察室の隅に置かれてある脱衣籠の前で、上半分を下ろしていた長襦袢を上げ、袖を通した。乾いた咳をしながら着物を羽織る。腰紐を結ぶ手を止め、千代は口を開いた。
「先生、ミネルバって何のことですか?」
「ミネルバ?」
カルテの上を走っていた万年筆のペン先の音が止んだ。
千代は巾着袋の中から一枚の紙を取り出して、藤一郎の机の上に置いた。新聞の切り抜きだ。藤一郎は手に取った。
「智を授け 我を鼓舞する 梅奴 翼広げし ミネルバの如く」
「その梅奴ってわたしのことですよね」
「ふむ。これは、市民文芸の欄だね。抒情的ではないが随分と情熱的だ。誰か、君の信奉者が歌を詠んだんだろう。ミネルバというのは希臘神話に出てくる女神の名だよ。知恵の神だ」
千代は半幅帯を結び終えた。右手でほつれた毛を撫でつけながら藤一郎の側に寄った。
「お座敷のお客さんが遊び半分で歌を投稿されたことはありますけれど。そんな耶蘇の女神を歌に入れる方なんておりません」
千代が唇を尖らせながら呟いた。藤一郎は耶蘇とは違うと言おうとして止めた。千代が何をしたくて、この歌を自分に見せたのか、見当がついたのだ。けれども一介の雇われ医者に何ができるだろう。
海霧に覆われた陰鬱な町ではなく、空気の清浄な土地で千代と暮らせたら、どんなにいいか。だが、給料の殆どを郷里に送っている現状を打破することは、考えるまでもなく無理だ。料亭に通い詰めることも、ましてや千代を身請けすることなど夢の夢だ。
「あ、もしかしたら、あの方かも。ほら、新聞社に新しく入った記者さん。ここのころ、足繁くお座敷に通ってくださってるんです。いつもお連れの方と難しい話ばかりされて、わたしら芸者のことなんか見向きもしないのに。この間なんか夜更けにやって来て、お座敷に上がるなり高いびきをかいて眠ってしまったんですよ」
藤一郎は再び記事に目を落とした。記者の話は藤一郎の耳にも入ってきていた。前任地で女性問題を起こしたとか、多額の借金にどうにもならなくなったとか、こちらに来て間もなく、知り合った看護婦と腕を組んで歩いていたとか、あまり芳しくない噂ばかりだったが。それでも、彼の書く署名入りの記事には熱き血潮がたぎり、藤一郎自身、惹かれるものがあった。
「贔屓にしてくれる客は大事にしなければね」
藤一郎は新聞の切り抜きを千代に返した。
「ええ。言われなくても大事にします」
千代は切り抜きを乱暴に引ったくると、診察室のカーテンを開けた。激しく咳き込み、懐紙で口元を押さえた。
「嗽を忘れないように」
千代の背中に藤一郎の声が留まった。
―了―
〜「抒情・ミネルバ・夜更け」「作中に短歌を一首以上入れる」
うん。実らぬ恋ですよ。