陽が落ちると、気温がぐっと下がる季節になった。夕刊にはアキアカネの写真が大きく載っていた。鮮やかに赤くなるのは雄だけらしい。雌も赤くなるが、腹のあたりが少しだけだそうだ。童謡に歌われ、秋の風物詩とも言える赤とんぼは雄だったのか。孔雀も獅子も雄の方が美しく素晴らしい。成る程、雌より雄が優れているのは自然の理なのだ。
新聞の一面をざっと見るが、ニュースらしいニュースはなかった。今日一日、世の中が平穏であったことは喜ばしいことだ。新聞を畳むついでに、くしゃみが出た。ストーブをつけるほどではないが、厚手のカーディガンを羽織らなければ。晩酌は冷えたビールやワインよりも熱燗がいい。塩辛と茹でた男爵、熱燗で一杯、いいじゃないか。熱燗にするのなら、レンジでチンではなく、薬缶に湯を沸かそう。
レンジでチン? なんだ、そのおぞましい略仕方は。
――自然解凍が一番いいのですけど。ご面倒でしたら、蓋をとってラップをしてから、容器ごとレンジでチンしてくださいね。
冷え冷えとした千鶴子の声が蘇り、途端に私は不機嫌になった。
塩辛くらい、ちゃんとしてある。なんだ、あの言い草は。
冷蔵庫の扉を開けようとして、扉に貼ってあるカレンダーに目がいった。油性マジックの赤や青で、「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」「町内会班長会議6:00〜」と書かれてある。それだけではない。玄関ドアの内側には「ガスの元栓、火の始末。財布、免許証、携帯電話。鍵を忘れずにかけるように」と貼り紙がされている。
ええい、忌々しい。ゴミの日も班長会議もちゃんと頭の中に入っている。忘れ物をするほど呆けてはいない。なんなのだ、あいつは。人をでくの坊扱いしやがって。
冷蔵庫の扉を開けると、塩辛の硝子瓶が見つかった。意気揚々と手にとった。まだ三分の一ほど、塩辛が残っている。濃いベージュ色の烏賊に、刻まれた唐辛子の赤が彩を添えている。冷凍ものは食品にタッパの匂いが移ってしまい不味くなる。だから嫌いだ。それなのに、あいつは何でもかんでも冷凍する。食べたい時にこまめに作ればいいじゃないか。趣味のパッチワークだかにかまけている時間があるのなら、ちゃんと主婦の仕事をこなしてからにしろ。幾度、口を酸っぱくして言っても、聞きやしない。終いには、貝のように口を閉ざす。今回だって、簡単な置手紙だけを残し、昼間のうちに出ていった。クリーニングがいつ仕上がるだとか、今日の夕飯はカレーを温めるようにだとか、強火にして鍋を焦がすなだとか、そんなことしか書かれていない。私が帰ってくるのも待てなかったのか。いや、それはいい。私を待つ必要はない。娘の理沙が入院したのだから、それは仕方がない。だが、主婦が一ヶ月近く家をあけるのなら、何か他に書きようがあるだろう。『あなたに不自由かけますわね』だとか、『留守中、よろしくお願いいたします』だとか。しかも、行ったら行ったきり。「着きました」と電話はあったが、それだけだ。
瓶の蓋を開けながら、ひとしきり、文句を呟いた。
中の臭さに思わず吐きそうになった。見ると、表面が白い黴で覆われている。
――明日中に食べないのなら、ゴミの日に捨ててくださいね。まだ冷凍庫の中に入っていますから。
そう、千鶴子は言っていなかったか。ゴミの日は、カレンダーを見て確認する、昨日だった。忘れていたんじゃない。ちょっとうっかりしていただけだ。そもそも、腐りそうなものを冷蔵庫に入れておく方が悪い。
怒りながら蓋を閉めようとし、瓶がするっと手から抜け落ちる。「ああっ」と声を出した時は既に遅く、床に塩辛とガラスの破片が飛び散っていた。クリーニング屋から引き取ったばかりのウールのズボンの裾にも、ベージュの塩辛が赤い唐辛子と共に散っていた。
罵ろうにも、罵る相手がいない。誰が悪いのか。瓶を落としたのは自分だ。自分の過ちを認めるのは沽券にかかわる。だが、家に一人しかいないのに、沽券もへったくれもない。思わず、床に崩れ落ちそうになるが、ここに座りこめばズボンはもっと汚れる。被害を大きくする前に、まずは後始末だ。雑巾はどこだ。
電話が鳴った。
台所の壁に掛っている、コードレスの子機を取った。
「お義父さん、僕です、慎二です。生まれました。さっき、えーと、五時三分。元気な男の子です。ちゃんと立派なおちんちんが付いてました。ずっと理沙のそばに付いていたんですけど、理沙、すごく頑張ってくれて、もー、感動ですよ。僕、涙が出てきて、泣いちゃいました。助産婦さんが、まず、理沙に抱っこさせて、それから僕に抱かせてくれようとしたんだけど、僕、怖くて抱けなくて。落っことしてしまいそうで、ただ見てました。ほっぺたがぷくぷくで、あ、目元は理沙にそっくりです。泣くと猿みたいなんですよ。真っ赤になって、手足を震わせて、全身で、力いっぱい泣くんですよ」
受話器の向こうから、婿の慎二が興奮気味にまくしたてる。なんだ、どいつもこいつも、肝心なことをどうして言えないんだ。おまけに泣くだなんて、一家の大黒柱が泣いてどうする。それよりも、理沙は元気なのか。
「おお、そうか。男だったか。それはおめでとう。で、理沙はどうなんだ」
「あ、大丈夫です。母子共に元気です。ちょっと腹が減ったみたいで、林檎を食べたい、って言い出して。今、お義母さんと一緒に家に帰って、林檎とおろし金を取ってきます。あ、お義母さんと代わりますね」
受話器を握ったまま、身じろぎもできずにいると、千鶴子の声が聞こえてきた。
「お父さん、理沙も赤ちゃんも元気にしてますから、心配しないでくださいね。それよりも、お父さんの方は大丈夫ですか」
「ああ。こっちのことは心配いらん。ちゃんとゴミも出している。それよりも、理沙を大事にしてやってくれ。おまえがいる間、ちゃんと栄養のつくものを食べさせて、休ませてやってくれ。理沙はこれからが大変なんだから」
「ええ。わかってますよ、お父さん。あらっ」
「ん? どうした?」
「いえ、これからは、お父さんじゃなくて、おじいちゃん、って呼ばなくちゃならないわねえ、って」
「なにを言っているんだ。俺がじいさんなら、おまえはばあさんじゃないか、馬鹿者!」
思わず、声を荒げてしまった。千鶴子は、くすくすと笑い、電話を切った。私は天井を見上げ、洟をすすった。
そうか。無事に生まれたか。無事に生まれてくれて、理沙も元気であるのなら、赤ん坊が男でも女でも、どっちでもいいじゃないか。今度会った時に、慎二君にはきっちりと言わなければならない。さあ、これから祝杯だ。
足を踏み出した瞬間、足裏に、ねちょっという感触を知った。思わず罵り、靴下を脱ぎ捨てる。よろけ、ダイニングテーブルに腰をぶつけてしまった。
まずは、雑巾、だ。
―了―
〜「赤とんぼ・塩辛・熱燗」
〜「コードレス・油性マジック・林檎」「登場人物は三人」
鍛練場投稿作を、ちょっとだけ直しました。
三語を投稿しようと思って書いていたら、先に投稿されてしまった。
最初のお題で考えていた内容は、
頑迷な夫が、定年後は故郷に戻ると言い出したために、妻と喧嘩になった。妻は、今の土地(嫁いだ娘が近くにいる)(パッチワーク教室を開いている)に住みたいと願うが、夫には聞き入れてもらえない。
で、妻は、実力行使というか、娘の家に行ってしまう。一人残った夫は、塩辛の入った瓶が割れ、途方に暮れる。
夫は、自分の母の作った塩辛が大好物。
妻は若い頃、姑(夫の母)に作り方を教わって、そのとおりに作っても、同じ味にはならなかった。ある時、隠し味に味噌を使っていることを知る、
と、塩辛の陰になんともいえないドロドロが〜。
という、話になる予定だったんだけど。
うーん。そうなると、やはり字数オーバーか。
次の三語を入れて書いたのなら、なんとも、ほのぼのとした話になってしまった。
前作で、赤ちゃんを殺すシーンを書いたので、今回は、その逆。
誕生の喜びや幸福感。
雌より雄の方が優れている、なんて、負け惜しみのように思いこんでいる主人公。自分の意識が変わったことも気づいていない。そんな風に、お茶目に書いてみた。
前作は、直前になって削除した箇所が幾つかあって。
登場人物は逃亡兵。
「前線から逃亡した」と書いて、前線からじゃ無理か、前線の後方部隊にいて逃亡したか、でも、それじゃ、文章の流れが悪い、と思って削除したんだけどもさー。
そうそう。
食べ物と宿の礼のために何かを作っても、そんなものは、誰も受け取ってくれなかった。
という文も削除したんだ。
前作で書きたかったのは、人は簡単に境界線を越えられる、ってこと。
主人公達は、これまでにも似たようなことをしてきたのだけど、主人公は直接手を出さず、ギリギリの状態を保っていた。手を出さなくても、加担していたのだから、本当は境界線は越えているんだけど、そう思わないようにしていた。
だから、自分にとっての、正当な理由や、過去の思い出に浸ったり、と、心が揺れているのだ。
自分の幸せのために、他者の幸せを犠牲にする。
そんな話じゃなくて、境界線を越えるか越えないか(とっくに越えてはいるのだけど)、そんなのを書きたかったんだよ。
とまあ、うだぐだ、ここで言っても仕方なく。
ちゃんとわかるように書けよー、自分。