食い物をほんの少し分けて貰い、一晩、暖かい部屋で寝かせてもらうだけだ、心配すんな、イーゴリーは欠けた歯を見せ、笑った。
睫の先に雪が積もり、瞬くと、そのまま凍りつきそうになる。引き剥がすように瞼を開ける。鼻の奥に錆の匂いが刺さり、痛い。指先はかじかみ、足のつま先の感覚は既になかった。震えているのは寒さのせいだ、ドミトリーは自分に言い聞かせる。
ヘマすんなよ、手順はわかってんな、セルゲイが低い声で念を押す。イーゴリーとドミトリーは頷いた。
森のはずれに一軒家を見つけたのは、幸運以外の何ものでもなかった。粗末な造りではあったが、煙突からは白い煙がたなびいている。逃亡したのは秋の初め頃だった。ひたすら故郷へ向かって歩き続け、農家の軒先に吊るされていた服や畑の野菜を盗み、どうにかここまで辿り着いた。イーゴリーの言葉を信じれば、あと三日も歩けば大河に出る。大河を渡れば、故郷の村はすぐ先だ。
河を渡り、故郷に戻るのだ。
セルゲイの判断に間違いはなかった。イーゴリーの言葉はいつも正しかった。何も不安に思うことはないのだ。
だが、幾度、言い聞かせても、ドミトリーの躯は震え続けた。
強い風が吹いた。耳当て付きの帽子や上着の裾がはためく。耳が千切れそうに痛い。
食い物と宿の礼に何を渡せばいいだろう。蹄鉄は打てるし、鍋の修理ならお手の物だ。時間があれば恋人に贈ったような飾り箱を作ることもできる。
セルゲイが片手を上げる。ドミトリーは意識を戻し、今、自分のなすべきことに集中した。片手が下がる。三人は素早く扉の前に移動した。セルゲイが壁を背に立ち、イーゴリーはドミトリーの足元に蹲った。ドミトリーは深呼吸してから、扉を叩いた。
銃を構えて出てきたのは、痩せた男だった。イーゴリーが男の膝下を銃身で打つ。男は前のめりになりながら、銃を撃ち放った。一発は扉近くの天井に、一発はセルゲイの肩を掠った。セルゲイは男の背や後頭部を殴打した。家の中から女の悲鳴と子供の泣き声が響いた。イーゴリーは男の銃を奪うと、家の中に入った。扉の前に男は転がり、頭から流れた血が雪の上に広がっていった。
雪は一晩中荒れ狂った。風は、獣の咆哮のように唸りをあげ、吹きすさんだ。
泣きやまぬ赤ん坊に業を煮やしたセルゲイは、おとなしくさせるよう、ドミトリーに命じた。言われるがままに、ドミトリーが赤ん坊の口を手で覆うと、母親の乳首を求め、赤ん坊の口が動いた。もぞもぞと動き、求めるものがないと知ると、赤ん坊は前よりも激しく泣き出した。セルゲイが怒鳴る。ドミトリーは手に力を入れた。顔が真っ赤に膨れ上がり、赤ん坊は手足をばたつかせたが、やがて動きは弱まり、止まった。
河を渡り、故郷に戻るのだ。
恋人の甘い香りや柔らかな胸の膨らみが蘇る。貪るように口づけ、結婚の約束をした。自分の躯の下で恋人は微笑む。
イーゴリーの下卑た笑い声がした。反射的にドミトリーは手を離した。離しても尚、掌の下で赤ん坊の口が動いているのを感じた。
境界線を越えた自分に、渡る河はあるのだろうか。
―了―
〜「修理、咆哮、境界線」「寒さを取り入れる」
気温や体感の寒さだけではなく、心の寒さも入れたかった作品。
「吐く息が白い。」という文を入れていたのだけど、直前で削除。
「境界線」の使い方は現代的で微妙。