おやっさんは工事現場で働いている。朝から晩まで炎天下の道路に立ち、旗を振り頭を下げる。顔も首も真っ黒に日焼けし、風呂に入っても、躯に染み付いた排気ガスの臭いは取れない。腰が少し曲がっていたのは、頭を下げる時に上半身も傾けるからだ。目尻が下がり、顔に刻まれた皺は、困っているような謝っているような表情にさせていた。それも仕事のせいだ。
おやっさんは辛いもの好きだ。近所の飯屋で、ビールを飲みながら焼肉定食や餃子定食を食う。料理に豆板醤やニンニクを振りかけ、汗を流しながら食う。飯はきっちり二膳。飯と味噌汁のおかわりは自由だ。「売れ残りそうだからね、無駄にしたくないから食べてってよ」と、一皿サービスされることもある。たいていは、ほうれん草のおひたしや小松菜の煮びたしで、大量にスライスされたトマトの時もあった。野菜嫌いのおやっさんの健康を考え、飯屋のおかみさんが気を利かしてくれるのだ。おやっさんは気づいているのかいないのか、しかっめ面を浮かべる。が、他人の好意を無にするのは義に反する。「ありがとさん」と右手で手刀を切ってから箸をつける。
山手線の沿線、古い工場や家が所狭しと建っている町におやっさんは住んでいる。近くに踏み切りがあり、しょっちゅう電車が通る。電車の中、窓際に立っている人間は皆小綺麗な洋服を着てすましている。疾く走り去る電車はおやっさんには必要ない。自転車があるからだ。ハンドルは歪み、ブレーキをかければキィィと嫌な音がする。でも、これで十分だ。
おやっさんは夜明け前に自転車に乗って仕事に行き、オレも出かける。おやっさんが旗を振っている間、オレはオレの仕事を片付ける。陽が傾き、街灯が灯る頃、おやっさんは帰ってくる。汗だくになってペダルを漕ぎ、チリンチリン、チリンチリン、とベルを四回鳴らす。オレはおやっさんが帰ってくる頃には、ちゃんと待っている。家の前で待っていてもダメだ。おやっさんがオレを呼ぶ。それに応えるようにオレが路地裏から駆けてくる。おやっさんの足元に腰を下ろし、尻尾をパタパタと振る。おやっさんはオレに笑いかけ、日焼けした手でオレの頭を撫でる。それが大事なんだ。おやっさんはオレに会えて嬉しい。オレも嬉しい。おかえりと吠える。腹が減ったと吠える。汗臭いぞと吠える。おやっさんは笑いながら「まあ、待てや。ちっと一服させてくれ」と言う。仕方ないな、早くしてくれよ、と吠える。
おやっさんは酔っ払うと歌を歌う。未練があるだとか、ぬるい酒がいいだとか、つまらない歌だと思うのだが、おやっさんは気に入っている。何曲かご機嫌で歌う。順番はまちまちだが、最後は必ず同じ歌だ。
きーてきいっせいしんばしを はーやわがきしゃは、はーなれたりぃ あーたごのやぁまにいーりのこる つぅきをたーびじのとーもとして
しわがれた声は、高音部になると掠れた。口の中でもごもごと歌い続け、やがておやっさんはテーブルの上に突っ伏す。酒の入ったコップを握ったままだ。眠ってしまったのかと思っていると、顔を上げ、とろんとした目でオレを見ることもある。
「チビよう、チビ、おまえはいいなあ」
おまえはいいなあ、と言われ、そんなものかと思う。おやっさんと暮らすようになってから食い物には困らなくなったし、雨が降っても家の中に居られるから、いいと言えばいい。十分にいい。
おやっさんはアパートの一階に住んでいる。畳は擦り切れて色褪せ、黴くさく、日当たりの悪い部屋だ。そこにシンジが転がりこんできたのは、夏の初め頃だった。シンジは髪を金茶色に染め、痩せた、顔色の悪い若者だった。眉は細く、目付きが悪い。シンジは「あんたの息子なんだから、育てるのはあんたの義務だ」と言った。あまりにもうさんくさく、生意気な態度にオレは怒った。噛み付いてやろうと唸ったんだが、おやっさんに止められた。おやっさんは小さな目を瞬かせ、「わかった」とだけ言った。その日から、おやっさん、オレ、シンジの三人で暮らすようになった。
シンジは夜遅くにならないと帰ってこない。たまに家にいても、昼過ぎまで寝ていた。シンジはおやっさんに金をせびり、それでも足りなくなると、押入れに隠してある缶から盗んだ。おやっさんは給料が入るとこの缶に入れていた。雨が降ったり仕事にありつけない日もある。だから、缶の金は大事だ。
金が減っていることに気づいた時、おやっさんは知らない振りをした。財布の中から硬貨や皺だらけの札を抜き取り、缶の中に入れた。オレがじっと見ていると、おやっさんは「いいんだよ、チビ」と言って口の端を上げた。
いいのか? 本当にいいのか?
「いいんだ、これでいいんだ」
おやっさんは小さく笑った。
おやっさんは飯屋に行かなくなった。値引きシールの貼られた惣菜を買ってきたり、飯だけを炊いて醤油をかけて食べるようになった。シンジは相変わらず好き放題にし、自分一人だけ、揚げたての肉を食べていた。
ある日、郵便物が届いた。幾つもの封筒を見、おやっさんの顔色が変わった。ブルブルと震えながら封を切る。テーブルの上に薄い紙が散らばった。おやっさんの額に汗が浮かんでいた。
夜中にシンジが帰ってきた。部屋に入るないなや、「どういうことだ」とおやっさんがシンジに詰め寄った。シンジは封筒をちらと見ると、フンと鼻で笑った。
「見りゃわかるだろ、クレジット会社やサラ金からの請求書だよ。払っといてくれよ」
「おまえは、自分のしてることがわかってんのか、働きもせず、毎日遊んでいて」
おやっさんはシンジの胸倉を掴んだ。シンジは背が高い。おやっさんは爪先立ちで立ち、それでもシンジの肩に頭の天辺が届くくらいだ。右の拳を振り上げ殴ろうとしたが、シンジの片手に遮られた。シンジの目が吊り上がった。
「てめぇに俺のことが言えっかよ。博打に手ぇ出して、俺らの生活、メチャクチャにしやがって。お袋が倒れた時、てめぇは何してたんだよ。お袋があんな死に方したのも、てめぇのせいだってのが、わかんねえのかよ」
シンジはおやっさんの手を振り払った。おやっさんは何も言わず、そのまま崩れるように畳に座り込んだ。
「てめぇみたいなクソ野郎、親父でもなんでもねぇよ、いてっ」
オレはシンジの脚に噛みついた。シンジは「バカ犬、放せよ、放せったらっ」と叫びながら脚を振り回し、その拍子にオレは部屋の隅に転がった。
シンジはドアを乱暴に開け、部屋を出ていった。おやっさんは正座して、うなだれている。両手は膝の上に置かれていた。左手の甲に傷があって血が滲んでいた。シンジがやったに違いない。オレは傷を舐めた。丁寧に舐めた。おやっさんのズボンに丸い染みができた。ポツリポツリと染みが増えていく。おやっさんは肩を震わせ泣いていた。
気にすんなよ。シンジがいなくてもオレがいる。オレがいれば十分だろ。
オレはおやっさんに言った。
でも、おやっさんは返事をしてくれなかった。
−了−
〜「クレジット、トマト、山手線」
〜「炎天下、辛い、博打」「動物目線で描く」
なんとか纏めました。長いけど。。。。
普段、自分が書かないような人物を描いてみました。おやっさんの住んでいるアパートは「コーポ藤原」です。おやっさんとシンジの話は結に至っていません。他の住民の話も書いてみたくなっています。
というわけで、いつか、長く書けるかも書けないかも。