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Author:芳野 朔
芳野です。自作小説と手芸、日々の雑感をたま〜に綴っていきます。尚、ここに投稿された小説の著作権は全て私、芳野にあり、他の文章はその筆者に著作権があります。無断転載・盗用等を禁止します。

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『ひそやかな夜に』

「ゼンテキすることになったの」
 葉月が何を言っているのか、わからなかった。
 今朝、葉月から電話があって、ランチを食べようと誘われた。午前中の営業会議が長引き、その後も顧客を訪問したりして、私は仕事を抜け出すことができなかった。結局、待ち合わせは夕方になってしまった。
「早期発見だったら温存することもできたんだけど、ちょっと進んでいてね。無理みたい。フミに勧められた時に保険に入っておけば良かった、なあんてね。さ、熱いうちに食べよ」
 葉月はテーブルの上にあるマルゲリータのピッツアに鋏を入れた。ステレンスの刃がゆっくりと動き、薄い生地が切られていく。私はようやく「ゼンテキ」が「全摘」であることに気がついた。
「うーん、美味しいなあ。フミも早く食べたら?」
 葉月はフォークの先についたチーズを舐めた。満足そうな顔をして、悩みごとも不安の欠片も感じられない。さっきの言葉は私の聞き間違いなのかもしれない。私はアイスティーのグラスにストローを差し込んだ。氷がぱりんと音を立てる。
 高台に建っているティールームは私達のお気に入りの場所だ。こくのあるソフトクリームや甘味を抑えたお汁粉、鋏で切り分けて食べる薄焼きのピッツアなど、ここでしか食べられない。眺望も良く、湖を見下ろすことができ、ジャージ姿の高校生達が散策路をランニングしていた。
 葉月は視線を窓の外に向けた。
「懐かしいねー。私達も、あんな風に毎日走らされたよね。真っ黒に日焼けしてさ。日焼け止めクリームをつけても、すぐに汗で流れちゃったよね」
「葉月、さっきの話だけど……」
「乳ぶさおさへ 神祕のとばり そとけりぬ。覚えてる?」
 葉月が振り向いて問いかけた。私の言葉は霧散する。
「ええっと、確か、初夜の歌じゃなかったけ? 与謝野晶子、『みだれ髪』でしょ。覚えてるわよ。葉月ったら、教育実習生に事細かに質問して、彼、すごく可哀想だった」
 頬が紅潮するのを感じた。葉月は頭を傾げ、覗きこむようにして、私の顔を見つめた。笑いを含んだ表情で、瞳が悪戯っぽく輝いている。
「男かわゆしの歌よりも、よっぽどいいでしょ。ここなる花の 紅ぞ濃き。うーん、エロティック」
「まったく、昔から好き放題やっていたけど、あの時の実習生と結婚するって聞いた時には本当にびっくりしちゃった。だって、彼、すごく堅物っぽくて葉月とはどう考えても」
 私は慌ててアイスティーを飲んだ。
「なによう、その言い方。ま、確かに堅物ではあるけどさ、なかなかいいヤツだよ、あいつは」
 葉月が軽く睨みながら言う。ウェイトレスがやって来て、隣のテーブルの皿やコーヒーカップを片付け始めた。葉月は片頬杖をついて、再び窓の外に視線を投じた。沈黙が続く。
「病院から帰ってきた夜にね、あいつにね、触ってもらった。掌の感触をね、ずっと覚えていたくて、失くなっても、ずっと、覚えていてもらい、たくて」
 掠れた声が途切れる。私は俯いたままグラスの中の氷が溶けていくのを見ていた。

    ―了―

〜「早期発見、みだれ髪、チェーン」「どこかに食べるシーンを」

鍛練場投稿作には「チェーン」を入れたのだが、一晩明けて読んでみても、やはり浮いているので、カット。

与謝野晶子と言えば、「君死にたまふことなかれ」や
「やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」
くらいしか知らなかった。お題にある『みだれ髪』を検索して、幾つかのサイトを巡り、歌を読んだ。あれこれ考えて、この歌を作中に使った。

乳ぶさおさへ 神祕のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅ぞ濃き

ちなみに「男かわゆし」は
下京や 紅屋が 門をくぐりたる 男かわゆし 春の夜の月

この内容であれば、中城ふみ子の歌集から引用した方がわかりやすいのかもしれないけれども、それではあまりにも直截的だ。
畏れや期待や喜びをもって触れられ、触れた乳房が、記憶に留めるために触れられ、触れた。そんな違いを出せたら良かったのだけれど、この形(葉月が友人のフミに語る)では上手く表現できてないですね。
「乳房おさへ」たのは、誰だろう。
歌の中の主人公が厳粛な時に踏み出していく、そのおののきのようにも思えるし、相手(恋人)の行為の一つにも思える。
いずれにしても、この歌のように、夜が馥郁と香ってくるようなものを書けたらいいな。


余談だけれども、主人公の名前は文月です。

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