今日の襲撃は取り敢えず躱した。
監房に入るまで平然と歩いてきたが、看守が鍵をかけた途端、気力を失った。早く藁布団の上で休みたい。隅にいた鼠を追い出し、慎重に躯を横たえようとして、最後のところで痛みが走った。呻き声が出そうになったが、何とか声を押し殺した。こっちが然程の痛手を受けてないことを押し通さなければならない。少しでも弱みを見せれば、明日は他の奴らが襲撃してくるだろう。それに、オレのいるJ棟にあいつの手下がいるかもしれない。手下でなくても密告する奴はいるだろう。オレが弱っていることを知れば、あいつは他の者に指図するかもしれないのだ。
あばらが折れているのかもしれない。が、あいつらのうち、一人の片目は潰してやったし、一人は鼻の骨を折ってやった。もう一人は声も出せずに蹲っていた。何より、あいつの急所近くをノミで刺してやったから、しばらくは使い物にはならないはずだ。惜しかったのは急所そのものを刺せなかったことだ。股間を押さえ、悲鳴を上げてのたうちまわっていた無様な姿を思い出し、オレは小さく笑い声を洩らした。
作業中にあいつらに取り囲まれた時、誰もオレを庇ってくれなかった。近くに看守もいたが、見て見ぬ振りをしていた。幸いだったのは、オレが石工で、ノミを持ってガーゴイルを彫っていたことだ。ガキの頃から、親父にぶん殴られ仕込まれたことが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
「痛いのだろう? 診てやろうか?」
突然、声が降ってきた。そちらに目を向けると鉄格子の嵌ったドアが開いていて、一人の男が取り澄ました顔で立っていた。
男爵だ。
急いで身構えようとしたが遅かった。既に躯は男爵に抑えられていた。男爵の左手で頭を、右手で肩を、片膝で脚を抑えられているだけなのに、身動きがとれなかった。男爵は身長は高いが筋肉質ではない。手足が長く優雅な体つきをし、整った顔立ちと尊大な態度はまさに貴族だ。オレ達と同じ犯罪者なのに、特別房に入り、囚人服も着ていない。その男爵が何の用でここにいるのだ? 男爵に抑えつけられてまま、オレの頭の中はめまぐるしく回転した。
「なんだ、意外と元気そうだな。てっきり骨折していると思ったのだがな」
「……うっ」
男爵の右手が脇腹をなぞり、思わず呻き声が出てしまった。
「ふむ。診たてに間違いはなさそうだ。どれ、ここは?」
「……放せ」
歯を喰いしばったままオレは言った。男爵はオレの声が聞こえてないかのように指を動かしていった。
「ここは痛くないのか。では、ここは?」
「は、放せ、その薄汚い手を放せっ」
怒りのあまり叫んだ、つもりだったが、痛みが強くて喘ぐような声になってしまった。
「おまえは何か勘違いをしているようだな、私はあのような下等動物とは違うのだよ。二本折れているようだ。布を巻いて固定した方がいいだろう」
男爵が手を放した隙に、さっと壁際に転がった。壁に背を預け半身を起こした。肩で荒く息をつきながら、まくしたてた。
「違うものか! ここでは若い奴が女の代わりにヤられる。看守がいてもいなくても同じだ。あんただって、ここにぶち込まれたのは男娼をベッドの上で殺したからだって言うじゃないか。お偉い貴族様でもごろつきでも、考えていることは同じだっ!」
男爵は片眉を上げた。唇の端がひくつき、面白がっているように思えた。
「私は殺していない。それよりも、おまえは石工だそうだな。おまえの祖先はシャルトル大聖堂の建築に関わっていたと聞いたが本当か?」
オレは頷いた。
「結構。私と組まないか?」
「お断りだ、ゲス野郎」
ゴッ!
壁に頭を打ちつけられた。男爵の左手が広がって頭に貼りつき、右手は喉を絞めていた。男爵が顔を近づけ囁く。
「私を侮辱するのは許さない。それから私は下品な言葉は嫌いだ」
男爵の親指と小指が左右の米噛を掴み圧迫してくる。
「わかったのなら、わかりました男爵様、と言え」
「わか、り、ました、男、爵、さ、ま」
オレは声を搾り出すようにして、ようやく言った。
「よろしい、素直であることは一番の美徳だ」
男爵は手を放すと立ち上がった。スラックスのポケットから絹のハンカチを取り出して丁寧に指を拭いた。指には緑の宝石のついた指輪が嵌っていた。ハンカチには薔薇の刺繍が施されていた。
「これか?」
オレがハンカチを見つめていると、男爵はひらひらと振ってみせた。
「身なりはきちんとしていたいからな。監獄であっても、金があれば何でも取り寄せられるのだよ。不味いがワインも飲めるし、葡萄を食べることもできる。ここは臭くてたまらんな。ま、それも今宵で終わりだ。明日、私はここを出ていくからな」
男爵が監房のドアを開けた。
「さっきの、組む、ってのは何のことだ?」
思わず声が出た。男爵は肩をすくめ、立ち去ろうとした。
「な、何のことでしょうか、男爵様」
男爵は振り返り、満足気な笑みを浮かべた。
「頭の良い子は好きだ。おまえの名は?」
「何をしてるの?」
俺の動きが止まった。
恐々と後ろを振り向くと、妻の美穂子がトレイを持って立っていた。コーヒーの香りが部屋に満ち、俺の胃がキリキリと痛み出す。
「いや、そ、それはだな」
「朝から仕事だって言って部屋に篭りっきり。少しは休憩した方がいいと思ってコーヒーを淹れてきたのに。なあに? 『薔薇窓』? あ、なんか文章が出てきてる、【おまえの名は? 早く答えろ。私はグズは嫌いだ】だって」
美穂子はトレイをデスクの端に置くと、興味津々といった様子でパソコンの画面を見ていた。背中を冷や汗が伝う。
「こ、これはだな、インターネットで遊ぶオンラインゲームで、こうしてチャットしながらゲームを続けていくんだ」
「ふうん。薔薇窓っていうのが、このゲームのタイトルなのね。で、あなたは、この子なの? 若い男の子で、結構、イケメンね」
「そ、そそ、そうなんだ。こいつはジャンといって、石工で、」
「あー、わかったー。こっちの男爵とそういう関係なのねっ」
「そ、そういう?」
「だって、これ、薔薇族の話なんでしょ?」
美穂子がにっこりと笑う。俺の背中を滝のように冷や汗が流れていく。
「ち、違う、こ、これは教会の薔薇窓に宝の隠し場所のヒントがあって、男爵はその宝を狙っているって話で」
「あ、ほら、また訊いているわ。【どうした? フリーズしたのか?】だって。早く答えてあげたら?」
「そ、そ、そうだな」
俺は気を取り直しキーを叩こうとした。
ぶちっ。
「あー、ゴメンねえ。間違ってメインスイッチを押しちゃった」
美穂子はにこやかに笑っている。美穂子の目を見た俺は、背中の汗が一気に凍ったのがわかった。
「そうそう、春のワンピースが欲しいから、買い物に付き合ってくださらない? せっかくの日曜ですもの、仕事じゃないのなら私に付き合ってくれてもいいわよね。さ、マウスを捨てて街に出よう、よ。早く支度してね。あなたのカードを忘れずに持ってきてね」
美穂子は鼻歌を歌いながら部屋を出ていった。
俺は黒い画面を見つめながら、ワンピースだけで済むだろうか教えてgooだとか、オレ達はこのまま監獄に囚われたままだろうか、お助けください男爵様だとか、埒もないことを呟いていた、心の中で。
−了−
「インターネット、薔薇、怒り」
「読者を気にしないでいながら、物語は計算して書く」
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