結婚した当初、私はほとんど料理ができなかった。独身の頃に料理教室に通ったこともあるのだが、三ヶ月しか続かなかった。講師の言うとおりに野菜や肉を切り、醤油やみりんを計量スプーンできっちりと計っても、出来上がったものを旨いとは思えなかった。私の中には味を感じる基礎ができていなかったのだと思う。
私の父は林業に就いていたのだが、チェーンソウでアカマツを伐採している最中に事故で亡くなったそうだ。それから母が働いて私を育ててくれた。夕飯はいつも八時近く、母は慌しく帰宅すると、出来合いのお惣菜をパックのまま、ちゃぶ台に並べた。「十円引き」というシールのついたラップを剥がし、冷えたお惣菜や油やけしたフライを食べる。旨いとも不味いとも思わなかったし、それを感じる余裕もなかった。早く食べて早く片付けて早く寝なければ、翌日の朝が辛い。それに、疲れきっている母に訴えたからといってどうにもならないことを、子供心にもわかっていたのだ。
朝はトーストと牛乳。日曜の夕飯には味噌汁や母の手料理を食べることができたが、味噌汁の出汁はインスタントの粉末だった。出汁は取るものだと知ったのは、高校の家庭科の授業でだった。
私にとって、食卓はただ食事をするだけの場所で、ゆっくりと味わう場所ではなかった。
その母も私が成人する前に亡くなった。
結婚後も仕事を続けていた私は、忙しさを言い訳に手の込んだ料理をしなかった。しなかったのではなく、できなかったのだが、夫は何も言わなかった。生姜焼き、ハンバーグ、カレー。冬は湯豆腐や鍋物。夏は冷奴。誰もが作れて、失敗することのない料理。そんなものでも、なんとかなった。
娘の麻由が小学二年生の春、姑と同居するようになった。
姑が家事全般を引き受けてくれるようになり、私は随分と楽になった。私が分担した家事は食器洗いと洗濯だけになり、毎朝、煮干で出汁を取った味噌汁とご飯が食卓テーブルに並び、ほうれん草のおひたしやハムエッグが添えられた。娘は誰もいない家に帰宅することはなく、夕飯には和食が供されることが多くなった。
姑の作る食事は美味しかった。
味覚に鈍感な私でも美味しいと、本当にそう思った。
でも、いつの間にか、食器棚の食器の位置が変わり、味噌や醤油の銘柄も変わっていた。たまに私が料理を作ろうとすると、他人の家のキッチンに迷い込んだようだった。
夕飯時、夫は「これが食べたかったんだよ」と漏らし、麻由は「これ、ホタテの味がきいていて美味しいね」「今日の晩ごはん、おばあちゃんと一緒に作ったんだよ」と言った。姑はただ微笑んでいるだけだったが、私は自分の居場所がないような気がした。
お惣菜のトレイが並ぶちゃぶ台であっても、温かい手料理が並ぶ食卓テーブルであっても、結局は何も変わらないのだと、そんなことを思ったりもした。
そんなある時、食事をしながら麻由が「冷たいオトーフ、食べたいなあ」と言った。梅雨も明け、温かい料理や熱い味噌汁より、さっぱりとした料理が食べたくなってきたのだ。言われてみれば、姑は豆腐料理を出したことがなかった。姑は少し困ったような顔をして、やがて、ゆっくりと話しだした。
「おばあちゃんが麻由ちゃんくらいの頃かねぇ、おばあちゃんは奉公していたんだよ。奉公ってのは、その家に住んで朝から夜まで仕事をすることで、お休みの日なんてなかったね。働くのが当たり前、働かないでいられるのは、お金持ちのだんな様やその家のぼっちゃんか嬢ちゃんだけだった」
姑が若い頃の話をするのは珍しかった。麻由は興味津々といった様子で姑の顔を見ていた。箸から焼き魚の身が落ちたことに気がつかないでいる。夫は黙々と食事を続けていた。
「おばあちゃんが働いていたお店は坂の上にあって、そこの坂はだらだら坂って呼んでいたんだよ。坂の下にある豆腐屋に、ようく豆腐を買いに行かされたものさ。毎朝、早い時間に鍋を持って豆腐屋に行き、引き戸を開けると、大豆の匂いがしてね。白と水色のタイルの流しには水がはってあって、豆腐が入っているんだよ。おじさんが水の中に包丁を差し入れ、するりと豆腐を切ってくれてね、水と一緒に鍋に入れてくれた。帰りが大変でね。鍋の水をこぼさないように坂を上っていくのだけど、どうしたって水はこぼれて、着物にかかってしまう。夏はいいけれど、冬や春先は泣きたくなったものさ。ゆっくりと歩いていけば、奉公先のおかみさんに「だらだらしてただろう」と叱られ、早足で歩けば水がこぼれる。だらだら坂がうらめしかったねえ。転んで豆腐をぶちまけたこともあって、おかみさんに叩かれたこともあった。あの頃の豆腐は今の豆腐と違って、硬くて歯ごたえがあったように思うねえ。あの豆腐をもう一度食べてみたい気もするけれど、もう食べたくないような気もして……。辛いことの方が多かったからね」
姑は箸を置くと、両手を合わせ、ごちそうさま、と言った。味噌汁の椀に飯茶碗を重ね、自分の食器を片付け始める。
「作ればいいじゃん」
麻由の言葉に姑の動きが止まった。娘は箸をぐるぐると回し、早口で言った。
「おばあちゃんなら何でも作れるから、オトーフを作ればいいんだよ。麻由も手伝うよ。お水の中のオトーフを切るところ見てみたいよ。ね、おばあちゃん、オトーフ、作ろうよ」
呆気に取られたような顔をしていた姑は、すぐにくすりと笑った。
「そうだね、今度、一緒にお豆腐、作ろうか。麻由ちゃんが手伝ってくれるのなら、おばあちゃん、頑張ろうかな」
「うん、作ろう作ろう! おいしいオトーフをたぁくさん、作ろう!」
「……麦茶を、もらおうかな」
今まで黙っていた夫が、こほっと小さく咳をして言った。
私は「はーい」と返事をし、椅子から立ち上がった。
――了――
「冷奴、チェーンソウ、だらだら坂」「ストーリーを意識して」
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