俺が若い頃の話だが、まあ、とにかく聞いてくれ。
昭和三十二年、地元の高校を卒業した俺は大学進学のため上京した。親父とお袋は北海道で牛飼いをしていた。弟妹もいて貧乏だったから、学費を出してもらうのがやっとで、奨学金とアルバイトで生活しなければならなかった。住む所は安いものを探した。不動産屋が何件か紹介してくれた中から俺が選んだのは、いつ壊れても不思議はないような木造アパートだった。壁は薄く隣の物音が聞こえるし、押入れの襖には染みがあり、日当たりも悪く畳はぶよぶよとしていた。当然ながら風呂はついていないし、玄関も台所も便所も共同だった。便所は汲み取り式で廊下にはアンモニアの臭気が漂っていた。
が、家賃が破格に安かったのと、大学まで徒歩で通えるというのが魅力で、即決した。
家賃が安いのには何かしら訳がある。
築年数を考えても、そのアパートはかなり安かった。自殺者がいたとか、幽霊が出るとか。だが、そんなものは大した問題ではない。授業に出席するのとアルバイトとで、俺がアパートにいるのは寝る時だけだった。廊下の隅に蹲っているものや、二階の窓の外に人影を見たこともあったが、特に悪さをするわけでもなく、こいつらもこのアパートで共同生活を送っていると思えば、どうってことなかった。
唯一、困ったことと言えば、隣の住人だった。
同じ大学の先輩ではあるが、何年か留年しているらしく、昼間っから雀荘に出入りしているような奴だった。太陽族を真似ていたが、いつも素寒貧(すかんぴん)の様子だった。誰かが台所で料理をしていると、寄って来て食べ物を無心するものだから、俺も他の住人も先輩のいない時を見計らって料理していた。
幽霊がいるせいか先輩がいるせいか、アパートは住人の移り変わりは激しかった。だが、誰かがいなくなっても、すぐに新しい住人が引っ越してくる。そんな中で、引越しをしないのは俺と先輩だけだった。
初夏に引っ越してきた男は四十過ぎの痩せて貧相な男だった。だが、見かけとは裏腹に愛想は良く、引越しの挨拶に、と、醤油を持ってきてくれた。ペットボトルのない時代だったから、醤油や油は一升瓶か缶に入って売られていた。男は醸造会社の研究室にいると言っていた。醤油は一升瓶に入っており、醸造会社のラベルも貼ってはいなかったが、研究室からくすねてきたのだろう、と思った。醤油はいくらでもありますから、なくなったらいつでも言ってください、と男は揉み手をしながら言った。これはありがたい申し出だった。一人暮らしとは言え、醤油はすぐになくなってしまう。俺は相変わらず貧乏だったから、できるだけ節約したかった。そして何より、男の醤油は旨くて、下手な料理でも引き立ててくれるような気がしたのだ。
男は愛想が良く、先輩が味見と称して、台所で男の料理をつまみ喰いをしても、嫌な顔一つ浮かべなかった。むしろ喜んでいるようで、やがて男は二人前の料理を作るようになった。先輩が留守の時は、部屋の前に布巾をかけた料理を置いていた。
男は清潔好きでもあった。台所や廊下、便所の天井にハエトリ紙を吊るし、定期的に新しいものに交換していた。ハエトリ紙というのは粘着テープで、うっかりすると頭にくっついてしまうこともあるのだが、その頃は、どこの家庭にもハエトリ紙がぶら下がっていた。
夏の終わり頃だったろうか、夕方、救急車のけたたましいサイレン音がした。何事かと思い、救急車の止まっている方向に行くと、表通りにある雀荘から担架で誰かが運ばれているところだった。人垣を掻き分けて見ると、先輩が苦悶の表情を浮かべて担架の上で苦しんでいた。アロハシャツのボタンは取れ、掻きむしったのか、腹には爪の跡が幾筋も付いていた。
先輩は搬送先の病院で亡くなった。
アパートの二階に住んでいるのは俺と男だけになった。
廊下は相変わらず臭かった。雨の降る日は特に臭く、アンモニアの臭気だけではないような気がした。だが、それが何なのか、俺にはわからなかった。
秋も深まり、実家から馬鈴薯や人参、玉葱が送られてきた。
醤油もなくなりかけていたので、野菜を幾つか袋に詰め、俺は男の部屋を訪れた。新しい醤油を貰えないか、と言うと、男はたいそう喜んだ。今、醤油を用意するから中に入ってくれ、と言われた。俺は男の部屋に入り驚いた。
男の部屋にはハエが何十匹も飛んでいた。
台所や便所にハエトリ紙をぶら下げるような、清潔好きな男の部屋とは思えなかった。それに加えて、何とも表現のしようがない異臭が満ちていた。
男は押入れの中から一斗缶を取り出した。
俺が持参した一升瓶の口に漏斗を置くと、一斗缶を傾けて醤油を注いだ。
部屋はハエの羽音と醤油のごぼごぼという音、そして、ひっきりなしに喋る男の言葉に占められた。男は、この醤油の旨さのわかるあんたは素晴らしい、だの、この味を出すためにどれ程苦労したか、だの、どうやって作るのか、だの、喋り続けていた。
一升瓶に醤油が満ち、男は一斗缶を畳に降ろした。一斗缶の口に付いている醤油を指で拭い取り、舌を出して舐めた。男は少し不満そうな表情をした。「足りないな」と呟くと、やにわに立ち上がった。ハエを何匹か捕まえ、手の中で握りしめる。
ねちゃり、という音がした。
黒い塊は男の手の中から漏斗の中に入った。俺は言葉もなく、ただ、男の様子を見ていた。
男は何事もなかったかのように一升瓶に栓をした。上下に何回か振り、なくなったら、またいつでも言ってください、とにこやかに笑った。
俺は礼もそこそこに男の部屋を辞し、その一週間後、違うアパートに引っ越した。
あれから五十年近くたち、日本はすっかり清潔な国へと変わった。
ハエトリ紙は今では見かけることもないし、殆どの家では水洗トイレを使っているだろう。
俺は大学を卒業して就職、結婚した。
女房は食に拘りがあるのか、味噌は手作りだし、醤油や塩はどこかから取り寄せ、かけ醤油には、どこそこの減塩醤油、と一々煩い。けして料理の下手な女ではないのだが、俺には、どの味も何か物足りなく思えるのだ。
女房なら、手作りの醤油を旨いと言ってくれるように思うのだが。
―了―
三語即興文 「ペットボトル、車、ハエ」「ホラーで」
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