慎治はトランジスタラジオのつまみを右に回し、ボリュームを上げた。
『……島付近で千六ミリバールの弱い熱帯低気圧が発生。南西に進み、……、再び西寄りに進路を変え、……、中心付近の最大風速は八十七メートル、……』
ザーッというノイズが入り、アナウンサーの声が不明瞭になる。アンテナの位置を変えたり、周波数のつまみを右に左に少しずつ回してみるが、効果はない。途切れ途切れの台風情報に慎治はイライラとした。
日立のWH−八二九。最新型のトランジスタラジオは結婚の祝いにと、郷里で稲作農家をしている兄が買ったくれたものだが、その肝心の結婚式の日は、どうやら台風が上陸しそうだった。
三男である慎治は地元の高校を卒業後上京した。夜間の大学に通いながら働いて八年になる。会社の寮に住み、生活費は殆どかからないとはいえ、学費を自分でまかなっていたため貯金らしい貯金はできなかった。
高校生の頃に読んだ小説が忘れられず、ドイツ文学を専攻したのだが、一銭の得にもならない文学部に父親が学費を出してくれるはずもなく、生活は苦しかった。それでも、充実した日々は心に確実に残っている。
慎治は、新居となるアパートメントの狭い室内を見回した。天井には雨漏りの染みができていて、家具らしい家具もない。カーテンは利恵の手作りだ。贅沢品といえば、トランジスタラジオと、利恵の足踏みミシンだけ。
フィアンセの利恵はテーラー松本という、紳士服の洋装店で縫製の仕事をしている。勤務時間だけでは足りず、家に持ち帰って夜なべ仕事をすることもあるので、店の使い古しのミシンを譲ってもらったのだ。使い古しといってもシンガー製だから悪いものではない。油を定期的にさし、磨きこまれている。まるで新品のようで、アルファベットで書かれたSINGERの文字が輝いている。
利恵との出会いは五年前になる。
旨いオムライスを食わせてくれるレストランがある、というので、職場の先輩に連れられて行ったのだが、食事が終わり店を出ようとした時、外から入ってきた利恵とぶつかったのだ。
シュトゥルム・ウント・ドラング。
覚えたてのドイツ語が脳裏に浮かんだ。
上気した頬。
三つ編みを古風な感じにまとめあげ、はみ出ている髪が額やうなじに、はりついていた。
大きな瞳にツンとした小さな鼻。
糊のきいたフラットカラーのブラウスに濃紺のサージのフレアースカート。
映画館で見たオードリー・ヘプバーンのようで、慎治は、まじまじと利恵を見つめていた。
形のよい唇が動き、利恵が謝っているが、言葉は意味を成して慎治の耳には入ってこなかった。
慎治は高まる想いを抑えられず、利恵の手を握ると、レストランの外へと走っていった。
まさに、疾風怒濤。
意味を成すのは、自分の心。
利恵との結婚にこぎつけるまでに、さまざまなことがあったが、それらの障害は些末なことだった。
疾風のように駆け抜けた二人にとって、結婚式に台風が来るというのも、お似合いなのかもしれない。慎治はそう思い直し、ラジオのスイッチを切った。
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